2015年8月25日火曜日

生かされている意味

日曜日、そして今日月曜と教会の礼拝でカンボジアチームの映像を見ました。
四回位見ることができましたが、私は毎回じわじわと目に涙が。


カンボジア孤児院のお子様方は、今東京アンテオケ教会のオンライン礼拝会員で、同じ一つの教会。Rさんは副牧師でいらっしゃいます。映像を見ていて本当に私達は一つなんだなあという不思議な感覚があって感動しました。教会にある深い神様のご臨在を感じました。

孤児院に引きとられてきた当初、一切笑うことができなかったお子様方。あまりにも傷ついてきたお子様方。
一番早いお子様でも、笑顔を出せるようになるのに一週間必要であったとのことで、長いお子様だと数ヶ月かかったとのこと。そんな想像を絶するような傷だらけのお子様方でいらしたのですが、今現在、映像で見たお子様方の笑顔は、一人一人輝いていて、本当に明るくて、まぶしく愛に満たされた笑顔でした。

このお子様方が、ただいるだけで、力強く生きて働かれる、神様の深い深い愛を感じます。
彼らの存在そのものが生きた神様の証だと本当に思いました。彼らは全員、これから大きく神様に用いられていきます。

チームのお証をお話しされた方々が何人か、孤児院のお子様方を「うちの子供たち」と表現していましたが、まさにその通りですね。
孤児院のためにもさらにお祈りしたいと感じます。


昨日は、中野の公園で一人、今夜は高円寺駅前でTree of LifeのNちゃんと路上ライブをしました。あるおじさんが立ち止まり聞いてくださり、お茶とお寿司のプレゼントをしてくれました。「君達は何のために歌っているの?」の質問にハッとさせられました。私達の答えは、「喜びを伝えるために。」シンプルに一言。「喜び」の中に全て含まれた深い意味がありますが…こういう質問にもすぐにみこころの答えが言えるように備えてゆきたいです。

何のために生きているの?何のために生かされているの?神様に愛されるために、私達の愛する神様のくださった人生の計画のために。何のために歌う(賛美する)の?神様をほめたたえ礼拝するために、素晴らしい神様をお伝えするために…ですね。子供たちも私達も。

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